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帰ってきた白雁 Snow Goose: Re-Recorded Edition/CAMEL


CAMELのAndrew Latimerが、闘病生活から復活した。

彼が骨髄繊維症という難病であることが発表されたのは2007年のこと。92年より発症していたらしい。
そして骨髄移植を受けたそうだ。

2003年より実質活動停止状態にあったCAMELだが、最後に発表されたツアーDVDのタイトルは「The Opening Farewell」。ツアー自体もFarewellを謳っており、Andy自身も、最後を覚悟していたのだろう。
​30年来のファンとしては、もう彼の曲も、ギターも聴けないのかと、寂しく思うしかなかった。

今年8月に、CAMELの存在を教えていただいた恩師に久しぶりに会いに伺い、CAMEL談義に花を咲かせ、Andyの状態を心配しながら二人で復活を願っていた。

そうした折、CAMELが活動を再開、ツアーも行い、なんと「Snow Goose」を自らリメイクする、というニュースが飛び込んできた。

Facebookでツアー写真が公開され、CD発売のアナウンスもあり、楽しみにしていた。

CAMELは僕のフェバリットバンドだが、彼らの代表作に挙げられる「Snow Goose」は、実は僕の中ではさほど評価は高くなかった。
決して嫌いな訳ではないが、他に好きなアルバムがあるだけのことなんだけど。意外と、ランクリストでは下の方だったり。実のところ、あんまり聞き込んでいるとは言い難い。

しかし、このリレコーディング、実に素晴らしい。
オリジナルのオーケストラパートはキーボードに置き換えられ(とはいっても最初は本物のオーケストラが入っているのかと思った)、アレンジも大きな変更はないものの、確かに「今の」CAMELの音だ。

思うに、Andyは病床にあって、一度は死を覚悟しただろう、そしてこの名盤を1975年に共に作り上げ、2002年に癌で亡くなったPeter Bardens(このアルバムは彼に捧げられている)に思いを馳せたのだろう。そして、このアレンジを練っていったのではないか?と思わせる。

そうか、だから「Snow Goose」だったんだ。

なにより、音楽が出来る喜びに溢れている。それだけではない。何か悟りにも似たような、元々静かな泣きのフレーズを得意とするギタリストだけど、さらに透明感が増したような、ギターが歌っている。
一昨日、僕の手元に届いてから、既に何度聴いただろう。

残念なのは、先述の恩師が9月に急逝されたことだ。
T先生、Andyはまた素晴らしい音楽を届けてくれましたよ。

 

このアルバムはポール・ギャリコの小説を基に作られている。
こちらもお薦め。
CAMELをバックに物語を読めば、涙腺が緩みっぱなしになることは請け合います。

と、この年の瀬に、大滝詠一さんの訃報が飛び込んできた。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
さらば、シベリア鉄道・・・

ココロの止まり木

評価:
河合 隼雄
朝日新聞社
¥ 546
(2007-12-07)
コメント:心理学者河合隼雄さんの週刊誌の連載エッセイ集。平易な言葉で書かれているが、とても深い洞察に満ちあふれている。

河合隼雄さんの著作は、特に難しい言葉が並べられている訳ではない。
しかし、その中身は深い海を覗くにも似て様々な示唆に富んでいる。

一見平易な言葉が並ぶエッセイだが、実は多くの示唆に富んでいる。
これは臨床家としての実績から、様々な条件の人たちと接してきた結果であろう。
また、日本人らしからぬ視点も合わせ持つ。
例えば、「コジンシュギ」と題された文章ではオーストラリアの社会学者ポーリン・ケントさんを引用しながら、家庭の中での「子供部屋」の使い方の違いで欧米と日本の個人主義の違いを述べている。
なるほど。
日本人が集団にならないと不安なくせに、いざ相談事をしようとすると各々勝手ばかりを言ってまとまらないことがよくわかる。
「恋愛の今昔」では、よしもとばなな「ハゴロモ」と「ロミオとジュリエット」を比較し、たまたま手に取った「ハゴロモ」が「アタリ!」だったと著者は喜ぶ。
「流れに棹さす」「水清ければ」では、心理臨床家の本領発揮と言った珠玉の内容である。慣用句の連想から、人の個性から人生論までを語る。
このように幅広い視点から物事を捉え、的確に理解している人は、世の中に実はそんなに多くはない。
このような方が、長年心理療法を通して沢山の方々と関わってこられたことは日本人として幸運だったろうし、このように著作に触れられることも感謝したい。
願わくば、多くの後継者が現れていただきたいと思う。

近代戦争と言うもの

「花はどこへ行った?」オランダ・ハーグより / 春 具
以前の記事(配信日:2009-08-14)だが心に強く残ったので。

今年の7月25日、Harry Patch ハリー・パッチ氏が亡くなった。享年111歳でした(1898-2009)。

 といっても、ハリー・パッチ氏の名前を知る読者はまずおられないのではないかな。わたくしも実は新聞で読むまで彼のことは知らなかったのですが、パッチ氏は、政治家でも俳優でもアーチストでもなく、サッカー選手でもクリケット選手でもない、一介のイギリス市民であります。

 パッチ氏は二つの世界大戦(1914-1918、1939-1945)を戦った世代の最後の生存者であります(パッチ氏が亡くなる一週間前、ヘンリー・アリントンというお年寄りが113歳で亡くなっています。彼らがあいついで亡くなったことにより、第一次世界大戦を身をもって知る世代はイギリスにいなくなってしまったのであります)。

近代の戦がかつてなく大規模になった結果、兵士、侍といったプロではなく一般市民が駆り出され、その裏ではいわゆる軍需産業などが莫大な利益を上げている。
しかも、殺人の自動化は我々の想像をはるかに越えて進んでおり、かつて互いの命のやり取りであってその行為の中にでさえ尊厳があったものが失われてしまっている。

パッチ氏は機銃を扱う技術に長けていたが、もともと好きでなった兵隊ではありません。それで、戦場で「人を殺す」ということがどうしても理解できないでおりました。

 あるとき、向こうの塹壕からドイツ兵が撃ちながらこちらへ迫ってきたことがあった。パッチ氏は相手を狙い、正確に肩に弾を撃ち込むのです。ドイツ兵は倒れながらも、さらに迫ってくる。撃たなければこちらが殺されるというとき、彼はこんどは敵兵の足を撃つのです。パッチ氏ほどのスナイパーの腕をもってすれば、至近距離の敵を撃ち殺すことは簡単なことだった。が、「なぜか、わたしは彼を撃ち殺すことができかったんだ」と、後年、パッチ氏は言っております。

 1917年9月22日。彼の部隊はドイツ軍の大きな攻撃を受け、パッチ氏たちのいた塹壕に砲弾がおちて、隣にいた3人の兵士は即死してしまう。彼らはタバコや靴下を分け合い、笑いあっていた仲間だったのでした。

 パッチ氏も傷つき、後方へ戻される。

 そして入院するのですが、このことがパッチ氏の戦争観を決めた。なぜ親友が死ななければならないのだろう。なぜおれが傷を負わなければならないのだろう。おれたちが何をしたというのだ……?

メッセージというのは、ときに語るよりも語らないほうがインパクトがあることがある。歴史上いちばん残虐で悲惨だったといわれる第一次世界大戦を体験しながらも、彼がその戦争について沈黙を続け、一切語ることがなかった、そのことはなににも増して鮮烈な反戦のメッセージではなかったか、とわたくしには思えるのであります。それだからハリー・パッチの弔報は、一面のニュースの価値があったのだと思うのです。

 ゴードン・ブラウン首相が「パッチ氏を悼む」として、「ハリーはもっとも勇敢なイギリス兵の最後の世代だった。偉大なヒーローだった」と弔辞を述べておりましたが、そのような言葉を、いまもアフガニスタンやイラクへ次々に若者を送り出している為政者の口から聞くと、その型どおりの文句に、戦場に行くことはない為政者の「何かを言わなければいけないから、何かを言う」という「姑息さ」を、わたくしは感じてしまうのであります。

先日、NHKの番組で日米安保に関するスタジオ討論会があった。
“戦争を放棄した”日本が防衛上アメリカの傘の下にある現実は、正しいのか?間違っているのか?
簡単な問題ではないが、度の過ぎた「グローバリーゼイション」が本来一地方の金融破綻であるべきものを全世界に深刻な影響を及ぼし、あるいは致死に至る病原菌を瞬時に地球上にバラ撒く結果になってしまっていることと、決して無関係ではない。

流通や兵器の発達は、原油の発見及び利用とともにあった。しかし、「ピークオイル」を迎えたとも言われる今、それは明らかに転換期に来ていると考えるべきであろう。
代替エネルギーの開発でもよいが、それよりも我々の価値観の転換を図る方がより現実的だ。
それがより困難な道であっても。

ラウィーニア

評価:
アーシュラ・K・ル=グウィン
河出書房新社
(2009-11-13)

現時点での「所有せざる人々」「ゲド戦記」のル・グウィンの最新作。

内容(「BOOK」データベースより)イタリアのラティウムの王女ラウィーニアは、礼拝のために訪れた一族の聖地アルブネアの森で、はるか後代の詩人ウェルギリウスの生き霊に出会う。そして、トロイア戦争の英雄アエネーアスの妻となる運命を告げられる―古代イタリアの王女がたどる数奇な運命―叙事詩『アエネーイス』に想を得た壮大な愛の物語。SF/ファンタジー界に君臨するル=グウィンの最高傑作、ついに登場!2009年度ローカス賞(ファンタジー長篇部門)受賞作。

正直、原典を読んだことはないし、この先もないかもしれない。
しかし、原典を知らずとも一気に最後まで読んでしまうだけの魅力に溢れている。

独りの王女が、その幼き時代より死までを独り語りで語っていく。しかも詩人の物語の中に居る人物としての自覚まである。
トロイア戦争と言えば、トロイの木馬伝説であり、かのシュリーマンの奇跡的な発掘譚は何かと古代文明に惹かれていた少年の僕には胸をわくわくさせるものだった。
そして「アエネーイス」もまたトロイア伝説の一部であり、実際の叙事詩の中にはほんの数行しか登場しないラウィーニアというイタリアの小国の王女が主人公である。

まず、文章が美しい。
ある意味淡々と語られるのだが、かえって静寂とともにあっただろう古代の風景がより鮮やかに甦る。戦とはいえ、お互いの命のやり取りであった時代であり、精霊と神々と人間が共存していた景色である。

そして、ラウィーニアの強さが美しい。
宮崎駿もまたギリシャ神話の王女ナウシカを自作に取り入れている。
グウィンのラウィーニアと宮崎のナウシカには共通点も多い。
両者とも伝説の中で語られる人物であり、しかもどちらかと言えばちょい役だ。
グウィンにしろ宮崎にしろ、全くなんという想像力だろう!

「秋の極上のワインのごとし」まさしく。

平気でうそをつく人たち~虚偽と邪悪の心理学~

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

M.スコット ペック,M.Scott Peck,森 英明

古い友人の書評に惹かれて、図書館から借りてきた。

アメリカの心理学者がその経験から「邪悪なるもの」を心理学的に考察したものである。

著者の言う「悪」とは、「自己愛由来の嘘」である。

本には臨床例も載っているが、そこに登場する“患者”はごく普通に身の回りに居そうな人たちである。しかし、おそらくは無意識に距離を置こうとしてしまう類いの人物である。

では、その「悪」は自分の中には無いのか、といったらそんなことは無い。

誰の中にもあるものなのだ。

「邪悪な人間とは?」

邪悪な人間は、自責の念ーつまり自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識ーに苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。彼らは苦痛を引き起こす。邪悪な人間は、自分の支配下にある人間に対して、病める社会の縮図を与えているものである。

邪悪な人間が、その特有の外見を絶えず維持するために必要としている精神的なエネルギーは、どれほど大きなものだろうか。おそらく彼らは、少なくとも最も健全な人間が愛の行為に注ぐと同じ程度のエネルギーを、そのひねくれた「合理化」や破壊的な「補償」に費やしていると思われる。なぜだろう。何が彼らにとりついているのだろうか。何が彼らを動かしているのだろうか。基本的にはそれは恐怖である。彼らはその見せかけが破れ、世間や自分自身に自分がさらけ出されるのを恐れているのである。彼らは、自分自身の邪悪性に面と向かうことを絶えず恐れている。

邪悪な人たちのナルシシズムは、この共感の能力を全面的に、あるいは部分的に欠いていると思われるほど徹底したものである。(中略)

こう考えると、彼らのナルシシズムは、それが他人をスケープゴートにする動機なるというだけでなく、他人に対する共感や他人を尊重する気持ちから来る抑制力を奪うという意味からも、危険なものである。邪悪な人たちのナルシシズムは、彼らが自分のナルシシズムに捧げるためのいけにえを必要としているという事実に加えて、自分のいけにえになる相手の人間性をも無視させるものとなる。ナルシシズムが彼らの殺人の動機となるだけでなく、殺しという行為に対する彼らの感覚を鈍らせてしまうのである。ナルシシストの他人に対する無神経さは、共感の欠如以上のものにすらなりうる。ナルシシストは他人を「見る」ことすらまったくできなくなることがある。

驚くことに、著者はこの「邪悪なるもの」は病と定義でき、将来的には治療可能だというのである。

そして、個人の「悪」だけでなく集団の「悪」にまで考察は及ぶ。

著者の言う「悪」は、僕の中にも確実に存在し、おそらく全ての人間の中に大なり小なりあるものだろう。

それだけに、衝撃的な内容ではあるが、人は変わることができ、そのことによって「進化」できるのだという著者の言葉は救いになる。

浦沢直樹さんが「MONSTER」「PLUTO」で描きたいことに、本書が大きく影響を与えたろうことは想像に難くない。

ちなみに、英語で“悪(evil)”は、“生(live)”の綴りと全く逆だそうだ。

ひぇー×35

「日本浄土」藤原新也

日本浄土

日本浄土

藤原 新也

いよいよ“フジワラワールド”も佳境に入ってきたか。

佳境、と言っても藤原さん個人の人生のこと。

若い感性が、まさしく鋭いナイフのごとき「印度放浪」から40年近く。

様々な旅を続けながら、混迷の世を生き抜く力を模索し、その姿勢と視点は多くの読者の指標となってきた。

近作は、老境に入りつつある作者の悟りにも似た(あきらめ、とは違うなあやはり)優しい文章と写真が多くを占める。

老人が昔話を懐かしむ、人によっては藤原新也らしくない、と敬遠する向きもあるかもしれないが、藤原さんだって人間なんだもん。

むしろ、昔話を出来るのはそれだけ歴史を積み重ねた人が出来る特権だ。還暦以下は昔話などを楽しむべきではない。

昔話を楽しめる、そんな大人になりたいなあ。

(もちろん、昔は良かった的な話を酒の席でされてうんざりすることはあるけれど、それとは次元の違う話。)

いや、伝家の宝刀は錆びずにきちんと鞘に納められている。

それは自身のホームページにあるブログで確認出来る。時々は、ぎらりと我々の喉元に突きつけられる。

きむら

今年の3月、金沢を旅行した。

おそらくは同じ頃、藤原さんも彼の地を訪れている。

同じ時期に、同じ場所に立ち、同じ視点で撮った写真。

しかし、さすがは藤原新也。

僕の写真とは観点が微妙に違う。

僕は、その看板自体を面白いと思い、彼は看板を含めた古都金沢を、少し引き気味の構図で切り取る。

さすが。

(僕も確か手前の石畳も入れたかったのだけど、看板の文字が小さくなることを懸念してアップにしたんだよな)

そして、尾道の養老温泉の部屋の、床の間の写真。

こんな写真はなかなか撮れまい。

これまでいろんな刺激を受け、読者にもいろんな刺激を与えてきてくれた彼だからこそ、何気ない日常が幸せなんだよ、それこそ本来大事にしないといけないものなんだよということを、本当の意味で教えてくれる気がするのは僕だけだろうか。

猫またぎ

「猫またぎ」この言葉を聞いて驚いた。

何のことかと言うと、藤原新也さんのブログ2月4日の記事「毒を食わされても仕方がないよな日本人。」である。

いやはや。

「中国餃子事件」、こんなことがなければ目が覚めない日本人、と言われても仕方ないだろう。

日本を占領するのに、テポドンは要らない。

海上封鎖すればいいだけの話である。

食料もエネルギーも、なにもなくなる。

小学生にも分かることである。

実際、僕が小学生の時分、もう30年近くも前になるが、当時でさえ小学校の授業で日本の自給率は3割ほど、石油に至ってはほぼ100%輸入と教わった。

それが未だに変わっていない。

政治家は、わざとこの問題に対して何の手だても打って来なかったのだろう。

だけでなく、島国ということを無視して、グローバリゼーションは素晴らしい、市場原理に全て任せるべきだという論法が大政を占めている。

市場原理が悪いわけではない。

ただ、それが全てにおいて当てはまる訳ではない。

自衛隊を軍隊にすることよりも、憲法改正よりもよっぽど急務の事柄ではないだろうか。

日本をあきらめない

日本をあきらめない

先日、ネット上のニュース記事に、まだ記憶に新しい「日テレアナウンサー盗撮事件」の飛び火が、元アナウンサーのブログ閉鎖(ではなく、正確には当該記事及びコメントの非公開)まで及んでいる、というものを目にしました。

なんでも、その元アナウンサーの方が被疑者を庇うような内容だったとか。しかし、その記事では「ある意味正論」とも書いてありました。

言うまでもなく、盗撮自体は許される行為ではありません。

しかし、ですね、「ある意味正論」というのは、まあ表現の善し悪しはあれど「盗撮されやすい、またはそれを煽るような」服装に言及したもの、だったらしいです。

少々話は飛びますが、最近、あるお友達の日記で「ミニスカートのスケ番デカはいかがなものか」という話題で盛り上がったところでした(笑)

麻宮サキに、ミニスカートはありえません(爆)

とまあ、そんなこんなで、以前読んだ藤原新也さんの記事を思い出した次第です。