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太陽のメロディーの口蹄疫と統一地方選挙

先日、友人のところに中古のピアノが入った、ということでお披露目パーティにお呼ばれしてきた。
そこで最後にみんなで「太陽のメロディー」を歌おう、となったのだが実はその曲を聴いたことがなかった。
この曲を知らないなんて!宮崎県民じゃない!くらいの勢いでお叱りを皆から受けたのだが、どうやら口蹄疫支援のために宮崎出身のミュージシャンたちが作ったものらしい。

泉谷しげるさんが音頭を取って盛大な野外コンサートがあったことも知っているし、それには知り合いの歌手も参加していた。
しかし、普段あまりテレビラジオと縁がない生活をしているため、そんなに耳にする機会がなかったようだ(聞いたところでは、一時期へビーローテションだったそう)。

口蹄疫が宮崎で大流行し、畜産業界はもちろん宮崎の経済全体を巻き込んだ騒動になったことはいまだ記憶に新しい。
しかし僕はその時、少々冷めた気持ちで事態の推移を見守っていた。

というのも、報道で見られる様々な反応というものが、ほぼ全て「経済的な」問題に対しての悲観であり、不謹慎を承知であえて言うけど当事者である畜産農家の方々であっても「牛を殺すのはつらい」とは言いつつも、誰も「うちのかわいい牛たちを殺さないでくれ」とは言わなかった(個人所有の種牛の件もあったけどそれはまた別)。

そこに僕は居心地の悪い違和感(それは「殺処分」という表現が端的に表している)を感じていた。

不謹慎、と書いたが当時はこんなことはとても言える雰囲気じゃなかった。
今でももちろん、このブログを見て不愉快に思う人も少なくないことは容易に想像がつくが、僕はこの自分が感じた違和感に向き合わなくてはならない。

それは人々がたとえ家畜であっても「生命」と「経済性」を天秤にかけ、「お金」を取ったということはどうしても自分の中で無視できなかったということだ。
それは畜産農家だけではなく、「仕方がないこと」と受け入れた我々消費者も同様である。いつから日本人はこうなったのか。

渡辺京二著「逝きし世の面影」 (平凡社ライブラリー)第12章「生類とコスモス」によれば、明治維新の直前までの日本人は家禽を家族同然に考えており、少なくとも当時日本を訪れた西洋人の目にはそれが驚きを持って映った様子が紹介されている。
西洋人が食するために農家から鶏を買ったものの、数時間後くだんの農民が「自分が育てたものが殺されるのが忍びない」と買い戻しに来たという。これが牛であっても同様だった。
それのみならず、牛乳を人間が飲む、ということは子牛からそれを収奪するものだと考えていた向きもあるらしい。

徳川期の日本人にとっても、動物は確かに分別のない畜生だった。しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣より確かに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序感の場合のように、それと質的に断絶していはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのである。宣教師ブラウンは1863(文久3)年、彼を訪ねて来た日本人とともに漢訳の「創世記」を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりにくると、「なんとしたことだ、人間が地上の木や動物、その他あらゆるものより優れたものであるとは」と叫んだとのことである。

そして現代とは違う死生観、いや常識を持っていたようだ。

徳川期の日本人が病者や障害者などに冷淡だと見なされたとしたら、それは彼らの独特な諦念による。不運や不幸は生きることの付き物とし甘受されたのだ。他人の苦しみだから構わないというのではない。自分が同じ苦しみにおちたときも、忍従の心構えはできていた。近代ヒューマニズムからすれば決して承認できないことだが、不幸は自他ともに甘受するしかない運命だったのである。彼にはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。

現代では健康保険や年金(場合によっては生命保険も!)に入っていないと心配な人が多いが、そんなものがなかった時代でも日本人は平和に生きていた。全てが自己責任であった。
現代人は「社会保障」によって、そういった自然に持って生まれた「(ある意味での)野生」を忘れてしまったとも言えるのではないか。
「社会保障」が悪いわけではない。心身ともにそれに頼り切ってしまう人間の問題だ。
それは有権者としての責任を棚に上げ政府責任を叫び、消費者としての社会的立場を理解して日々をおくっているのかを省みることなく企業責任を叫ぶ我々の態度ではないのか。
(僕のバックボーンを補足させていただく。父親が獣医であり、当時現場の最先端で陣頭指揮にあたった家畜保健所の方々の中には、子供の頃からお世話になった方々も含まれている。また僕の学生時代の専攻は生物学であり、学者を志した時期もある。一般の方よりも現場をイメージしやすかったのではないか、と思っている)

ピアノお披露目パーティと同じ日に、統一地方選挙が行われた。
先の東日本震災と福島第一原発事故を受け、ネット上では脱原発への議論が活発化し、東京都知事選では推進を表明した現職の石原慎太郎氏に対して、僕が見る限り反対意見が多かったように感じた。また、同日1万人規模の反原発デモも東京で行われた。
これを機に、脱原発、自然エネルギーへの転換が選挙でも主な争点になるかと思われた。

ところが、圧倒的得票で石原氏は再選、原発が立地する北海道と福井、島根、佐賀の各県の知事選も、原発問題も選挙戦の大きな争点となったものの、いずれも現職が当選した(ただしどの知事も安全対策向上はうたっている)。
もちろん、候補者を選ぶ基準はエネルギー問題だけではないだろう。しかし、有権者の中でどの問題が最優先課題なのか、ということが今回の選挙結果に現れたわけだ。

ところで、宮崎県議会議員選挙での有権者の自然エネルギー推進の意識分析を行ってみた。
こちら
事前のアンケートによって自然エネルギーを推進する意志を示した候補者の得票数(落選含む)は「99,459」であり、これは当日有権者数「784,326」に対して「12.68%」であった。
もちろん、無回答の候補者もいるし、有権者がエネルギー政策のみで投票したわけではないのであくまで参考の数字ではある。
当選した候補者のみでは得票数は「77,414」であり、当日有権者数に対して「9.87%」である。
これをいささか乱暴に解釈すれば、宮崎県において自然エネルギー推進の民意は県政に1割に満たない影響しかない、ということになる。

おそらく、他県でも大差ないのではないのか。
その候補者が脱原発を最優先課題にあげたとしても、候補者自身に政治家としての魅力がなければ有権者は投票しないであろうが、しかしこの結果に愕然とした。
(ちなみに僕の住む選挙区は無投票当選。これもどうかと思うが。加えて史上最低の投票率49.02%であった)

ネット上(主にツィッターとmixi)でもやはり驚きの感想が多かったように感じたが、どうやらネットで自主的に情報を集めようとする人たちと、既存マスメディアからの情報を主とする人たちとの間の温度差がかなりあるようだ。

今回の原発事故で、これまであまり関心のなかった人たちも「反原発」を叫ぶようになり、それに対して批判的な意見もあるが、これは生物としての本能から「何かヤバいぞ」と直感しているからであり、当然の反応だと思う。
むしろ、それを感じられなくなっている日本人が僕が思っている以上に多いことに驚かされる。

問題は、そんなに難しい話ではないのだ。
本当に大事なのは「命」であって、けっして「お金」や「経済性」ではない。
ここにも、口蹄疫事件でも感じた「違和感」が厳然としてある。
いったい、日本人はどこに向かおうとしているのか。

ところで「太陽のメロディー」。普通にいい曲です。