自己中社会

 

臓器移植「15歳未満認めるべき」74%…読売調査

6月30日22時36分配信 読売新聞

臓器移植「15歳未満認めるべき」74%…読売調査

 読売新聞社が6月27~28日に実施した面接方式の全国世論調査で、「臓器移植を必要とする子供が国内で手術を受けられるよう、15歳未満の子供でも臓器提供を認めるべきだ」という意見に「賛成」は74%、「反対」は10%だった。

 現行で禁止されている15歳未満からの臓器提供を可能にすべきだとの考え方が多数だった。

 脳死となった人からの臓器提供で、「本人の意思がわからない場合、家族が承諾すれば認めるべきだ」との意見には「賛成」62%、「反対」19%。本人が書面で提供意思を示しているという臓器移植法の条件緩和を容認する人は6割を超えた。こうした条件緩和で、国内での脳死移植は「増えていく」と思う人は74%に上った。

 自分が脳死になった場合、臓器を「提供してもよい」は58%だった。提供意思を書面で示した家族が脳死となった場合、提供を「承諾する」は43%だったが、「その時にならないとわからない」も44%あった。調査は全国の有権者3000人を対象とし、1836人から回答を得た(回収率61・2%)。

最終更新:6月30日22時36分

脳死は人の死か。

このことに対して、いまだ科学的に明確な答えは出ていない。
にもかかわらず、我々はそれを死としようとしている。

これはどういうことか。

簡単に言えば、わが身がかわいいからである。
あるいは、私の愛しい人がかわいいからである。
そのために、死んでいるのかどうか分からない人を、殺そうとしているのである。

その証拠に、臓器提供される側になることを望んでいても、する側にはなることには躊躇する、というのがこの調査の意味するところである。

人間、誰しも自分がかわいいものであるが、しかしそれに対して自己規制のない社会の実態は、果たして幸福なのだろうか。

ちなみに、個人的に脳死は人の死ではない、と考えている。
人は脳で考えるのでもなく、感じるのでもない。ハートで感じるのだ。
脳は、外的信号の処理を担っているに過ぎない。

「自己中社会」への9件のフィードバック

  1. TKさんの主張を、私は以下のように受け取りました。
    (1)脳死が人の死ではない以上、脳死移植は殺人である
    (2)脳死移植への道を開こうとする一方で、臓器提供を
     ためらうのは自己中心的である
    本当にそうでしょうか?
    (1)に関し、脳死が人の死ではない根拠を、TKさんは「ハート」に求めていますが、これを私たち全員の共通認識として、脳死=死と考える人々の意見を排除することは無理があります。
    (2)に関し、TKさんの視点からは自己中心的に見えるかもしれませんが、文の順序を入れ換えれば、「臓器提供は怖いけど、誰かが助かるのなら頑張ろう」という自己犠牲精神の現れとも受け取れます。私からみれば、「自分が脳死になった場合臓器提供してもよい」と58%もの人が回答しているのはむしろ驚きです。また、「そのときにならないとわからない」という44%なる数字は家族に関するものであって、必ずしも「自己中」の「自己」にあたるとは言えないと私は思います。
    臓器移植を推進する人々の原動力は、死の淵で苦しむ(精神的にだけではなく、実際に肉体的にも苦しいのですよ)患者さんを助けたいという思いなのであって、臓器提供者を殺したいということではありません。また、臓器移植を待ち望む患者さんは、人を殺して生き延びたいと願っているわけでもありません。
    医療の手段としての、臓器移植そのものに反対ということであれば、それもひとつのご意見として了承できます。しかし、「脳死は人の死ではなく、ハートの死が人の死だから」脳死移植は人殺しであるという主張は、客観性に乏しい極めて曖昧な根拠のもとに、病に苦しむ人々を侮辱するものと私は感じます。
    脳死が人の死かどうかを決める、科学的な方法はありません。科学がいくら進んだところで、体のどの部分が死んだかを言い当てる技術の精度が増すだけで、人格を持つ存在としての命そのものを検査することは出来ないのです。しかし、それでも脳死というわかりにくい概念を受け入れ、その上で臓器提供しても良いという方がいらっしゃるならば(尊いことです)、それは自らの死の選び方として素晴らしいことですし、その方の臓器提供を受けた患者さんが人殺し呼ばわりされる理由はまったくないと私は思います。自分の意思で、脳死となった後に臓器提供者となることは、「自己中」とは対極と思いますが、いかがでしょうか。
    問題は、残り42%の方が意に反して勝手に臓器を取り出されてしまう事態で、これはなんとしても避けるべきだと思います。改正臓器移植法A案が参議院で廃案となるよう願っています。

  2. >Broccobirdさん
    脳死に関する僕の考えについては、あくまで個人的なものであって、それが社会的コンセンサスを得られるかどうかは別の問題ですよね?
    よろしいでしょうか?
    僕がここで断定的な表現をしているからといって、それは別に僕の個人的な考えを社会に押し付けているわけではありません。
    また、この読売新聞の記事自体、現国会で議論されている法改正を前提に行われたものというのは容易に推定されるものであります。
    それに対してこのブログの記事を書いているということは、何も臓器移植を受けられた方を個人攻撃しているわけではまったくなく、臓器提供者を殺したいと思っていらっしゃるということを指摘しているわけではないことは、わざわざ断るまでもない当たり前のことであって、申し訳ないですがそこまで懇切丁寧に僕が個人のブログで説明する必要性を感じません。
    そのあたり、曲解されても正直困ります。
    「殺そうとしている」の意味するところは、もし今問題になっている臓器移植改正法A案が成立することで、自分の意思表示がないにかかわらず脳死の判定によって臓器提供されてしまう可能性を、我々はよくよく考える必要がある、ということです。それは文字面だけではなく、その裏(これまで説明したとおり)も考えていただければ分かることと思います。
    いろんな方が見られる可能性があるブログですので、言葉足らずというご指摘は真摯に受け止めますが、読み手にもある程度は読解力を求めたいと思います。
    ですので、臓器移植を受けられた患者を人殺し呼ばわりしているというのは論理の飛躍というものです。
    また、社会的に多数を占める意見、世論が自己犠牲の精神によってこの記事にある調査の結果があるならば、自分が脳死の状態にあるかどうかにかかわらず一切何の見返りもなく臓器を提供してもよい、という意見(そういう議論や立法的なことという意味です)もあっていいのではないでしょうか(これはもちろん極論ですが)。
    「自己中」というのは、自己の体のみの問題だけではなく、本文にあるとおり「愛しい人のことを愛する」ことも含まれるのですよ。
    肉親を含め自分の近しい人たちを愛するように、たとえ赤の他人でも同じように考える、慮(おもんばか)る社会の方がこの脳死の問題だけでなく、いろんな意味で住みやすいより幸福な社会ではないでしょうか。
    それが本当の意味での利他の心ではないでしょうか。
    社会的な法整備によって、個人の意思の選択肢が増えることには基本的には賛成です。
    臓器提供の意思表示をされている方について、その臓器移植手術をなんら否定するつもりはありません。
    しかし、本人が何歳であろうと、本人の意思表示がやはり不可欠、というのが僕の「個人的な」考えです。それは、実の親でもその権利を侵すことはできない、と考えます。
    脳死が人の死かどうか分からないのですから、ひょっとしたら脳死の人を殺すことになるのかもしれないという気持ちを忘れてはいけないのではないでしょうか。
    ともすると、さまざまな報道によって世論があいまいに動いてしまう、その結果(Broccobirdさんが懸念されているように)法案が通ってしまう危険性をここで指摘しているだけですので、そこは誤解なきようお願いします。
    最後のちなみに以下は、あくまで個人的な考えですので、それは別の論議です。
    ハート云々も鼻で笑おうが勝手にしていただいていいのですが、まあそう考える人間も世の中にはいるということです。
    その僕の死生観を理解していただくには、僕と同じ情報を持ち、その思考プロセスを説明する必要があります。
    それはこの場では不可能です。客観的でないと受け止められることに関しては、あなたを責めることではなく僕の説明不足ですのでその点はお詫びしましょう。
    まあ、今回の法改正に対してはBroccobirdさんとそんなに意見としては違わない、と感じています。
    ただ、文章の表現によって誤解を受けているだけと理解しています。

  3. 長文の返信、恐れ入ります。
    私がTKさんに求めているのは、極めてシンプルなことです。
    「もし貴方や貴方の家族が、移植を必要とする病気で苦しんでいるときに、このBLOG記事を目にしたらどう感じますか?」
    そういう目で、ご自分で書かれた記事を読み返して頂けませんか。TKさんがどういうつもりで書いたか、を振り返るのではなく。曲解なのか、論理に飛躍があるかどうか、その後で改めて考え直してみて下さい。
    TKさんが訴えたいと思っていることは、「殺そうとしている」などという言葉を使わなくとも充分に表現できることばかりです。にもかかわらず、移植を受けようとする方、あるいは移植を受けた方たちも目にするかもしれない公開BLOGで「殺」という文字を用いるのは、おおいに配慮に欠けると私は思います。
    私宛てに「貴方の事情」を釈明するのではなく、既にこの記事を目にしたかもしれない、病に苦しむ方々に向けて、新たにメッセージをいただきたいと思います。
    P.S.
    15歳未満の脳死移植を74%の方が認めるとしている調査結果に対して。この数字は、
    「我が子のために臓器を」
    「我が子の臓器を他の子のために」
    の二つの思いの合計です。TKさんは前者であると断じていますが、必ずしもそうとは限りません。この統計からは読み取れませんが、後者の方が多かった場合、この数字は「自己中」とは対極です。さらに、この数字の背景には「国内での移植が認められなければ、外国の子供たちの臓器を提供してもらうことになる、それでは日本という国が自己中心的な振る舞いをしていることにならないか」という問題意識が大勢の方にあるのではないか、と私は思います。
    極めて限られたデータから、「自己中」「殺」という結論を安易かつ断定的に導き出し、筆の赴くがまま無配慮に公の場に表現するのは、感心できないと私は考えます。

  4. >Broccobirdさん
    表現についての釈明は前のコメントにあるとおりです。
    それ以上でもそれ以下でもありません。
    仮に臓器移植を受けられた方ご家族がこのブログを見られたとしても、その意図をご理解いただけると思います。
    以上です。
    PS
    人間の欲望というのは際限がない。特に現代ではそのエゴが巨大化しすぎて地球すら破壊しようとしているとは思いませんか?
    これは医療だろうが経済だろうが教育だろうが、問題の根幹は一緒なのですよ。
    また揚げ足を取られるといけないので念のため、僕は病気に苦しみ移植手術ができるならば受けたいという気持ちや家族や愛する人を救いたいという気持ちは誰にでもある(僕も含めて)もので、それを否定しているわけではないのですよ。
    しかし、自分のエゴが何でも通るわけではないし、そのエゴを叶えようと近代文明は科学の発展に多大なエネルギーを注いできたわけですが、そのことが大きな矛盾を作り出してもいるのです。
    以前、知人(成人)の海外での心臓移植手術の募金活動に協力したことがありますが、本当にその僕の行為は正しかったのか、今でも折につけ考えます。
    目の前にいる人が健康を取り戻し普通の生活に戻ったことは素直にうれしいことですが、遠い海外で臓器を提供してくださった方のことは何にも知らないのですよ。
    日本で出来ないから海外へ行く、その発想からはこの脳死問題についての答えは導き出せません。
    それは脳死問題ではなく、単に医療問題です。
    人間とは、その自分のエゴに立ち向かっていく存在であるべきではないでしょうか。

  5. ちよっと的外れになるかもしれませんが…。
    臓器移植って、人が判断して行なえるものかどうかが疑問に思えます。
    臓器は、完全に持ち主の物ですよね。
    店で買ったわけじゃない、紛れもない自分の物です。
    それを他人の判断で右から左に動かしてしまうのは如何なものか…。
    物事には人間が判断して良い事と、いけない事があるように思えます。
    1人+1人が1人になるのは何とも釈然としません…。

  6. >盆造(´ー`)y━・~~~さん
    一番問題なのは、その点だと思います。
    とうとう懸案の臓器移植改正法A案が成立してしまいました。
    この法律は、15歳以下からの脳死者からの臓器移植を法律的に認めるとともに、脳死状態になった子供の臓器提供に親の同意があれば可能になるというものです。
    これは果たして倫理的に許されるものなのか、というのがこのブログの真に問いたい部分でもあります。
    考えたくはありませんが、虐待によって脳死状態になり、本人の意思確認なく虐待した親によって臓器提供者となる、そういう場合も可能性としてはゼロではありません。
    その場合、一体誰が幸福になれるのでしょうか。
    盆造(´ー`)y━・~~~さんの言われるとおり、分からないものには手を出さない、という分別が人には必要な場合もあると思います。

  7. Who is the egoist?
    > その意図をご理解いただけると思います。
    >
    > 以上です。
    以前、内科医として数多くの患者様を看取ってきた(本当は助けたかったのですが)私から見て、無理です。余命数ヶ月と宣告され、苦しみながら「なぜ自分が死ななければならないのか」と嘆き悲しむ患者様が、元気な貴方(ですよね)にいきなり「人殺し」と言われて、あなたの真意とやらを想像する義務がありますか?そんな余裕があるとお考えでしょうか?貴方の記事を最後まで読むことすら耐えられないかもしれません。
    脳死ドナー移植でしか助からない患者様に、「脳死移植は自己中心的な殺人だ」「移植を待つのは人を殺そうとしているのと同じだ」と言い放って、「ご理解いただけると思います」と平然としている心境は、私の理解を超えるものです。
    頭の体操を楽しむ貴方と、避けられない死を目前に控えた患者様。どちらの気持ちを大事に考えなければならないかと問われれば、私は患者様と即答します。
    ご存じないかもしれませんが、最近の病院ではノートPCを持ち込み、自分のベッドでネットを見ている入院患者さんが多くなっています。病に苦しむ患者さんが、貴方の記事に行き着く可能性はそれほど低くないのです。私が、担当患者さんのPCに貴方のの記事を見つけ、それで患者さんが悲しんでいたなら、私は貴方に殺意すら覚えるかもしれません。どれほど悔しくて悲しい思いをすることか、いくら言っても貴方には想像できないのかもしれませんが。
    貴方は、自分の言葉は患者様に向けたものでないと言い訳をします。しかし、貴方が必要もないのに撃った銃の流れ弾に当たって亡くなった人がいれば、貴方は責任を逃れられますか?自分の家族が撃たれて、「狙った訳じゃない」と言い訳されて許すほど、私はお人好しではありません。
    多くを語ることはやめますが、脳死移植を推進しようという人々は、決して我が身、我が子、我が肉親がかわいい、それだけで力を合わせているのではありません。彼らは、脳死移植を早く、広く普及することこそ「愛」だと信じ、実際の行動に移しているのです。自分や近しい人が移植を受けられるように運動を始めたところで、法案・制度が整備された頃には、自分が助けたいと願った人はもう亡くなっているでしょう。特定の個人を助けたいならば、国内の法整備を働きかけるより、海外での移植の道を探るほうが可能性が高いのです。誤解を防ぐために注釈しますが、私は脳死移植は殺人ではないと思っていますし、海外での移植についても、受け入れ先の国民みなさんの博愛精神によって外国人にも門戸を開いていただいているのなら、これを固辞する必要もなく、有り難く恩恵にあずからせていただいてよいと考えています。
    彼らを動かす原動力が「自己中」ではない以上、彼らに「自己中」と批判しても何の意味も持ちません。分かってない奴、と言われるだけです。彼らは、「ひょっとしたら脳死の人を殺すことになるのかもしれないという気持ちを忘れてはいけないのではないでしょうか」ということなど、百も二百も承知なのです。
    誰かが犠牲になるかもしれない、その危険を冒してまで、彼らが移植を推進しようとする原動力や、その思いはなんだろう?
    そう思いを馳せなければ、貴方の理解が深まることはありません。また、理解が深まらなければ、彼らとの対話はありません。対話がなければ、何も動きません。つまり、今の貴方は、無力です。
    58%もの人たち(過半数ですよ)が、「TKさんが病気になったら、脳死になった自分の臓器をあげるよ」と言ってくれているのに、これを無視。脳死児からの臓器提供を認める74%の人々は、すべて「我が子がかわいいからだ」と断じ、「苦しむ他の子のために我が子の臓器を」という親御さんの思いは含まれていないと決めつける。患者さんの側に立つ医師が、そんな言葉を使うのはやめてくれと言っても聞き入れないで、同じ言葉を繰り返し叫び続ける(記事の掲載がそのまま続いていて、コメントでの訂正もないというのは、そういうことです)。

  8. > 世論が自己犠牲の精神によってこの記事にある調査の結果が
    > あるならば、自分が脳死の状態にあるかどうかにかかわらず
    > 一切何の見返りもなく臓器を提供してもよい、という意見
    > (そういう議論や立法的なことという意味です)もあっていい
    > のではないでしょうか(これはもちろん極論ですが)。
    ありますよ。極論でも何でもなく。
    骨髄バンクや生体腎移植についてお忘れではありませんか。いずれも、臓器提供者は健康な社会生活を営む成人です。彼らは、確率が低いながらも手術を受けることによって死亡する可能性があることを説明され、これを理解、承諾した上で臓器提供に臨んでいます。生体腎移植については、TKさんは「自己の延長だからだ」と言うでしょうが、肉親といえど最も近しい他人とも言えますので、一方的に「自己中」というのは当たりません。
    世の中には、素晴らしい人がたくさんいらっしゃいます。私は、TKさんがなぜこれらの方々の存在を無視し、一方的に「社会」を断罪するのか、理解に苦しみます。
    自分の理解できない考え方に触れたとき、その考え方を誤っていると決めつけて非難するのではなく、自分の考えが及ばないからではないかと疑ってみる。そういう、相手を理解しようという姿勢こそが、貴方の訴える「慮り」につながるのではないでしょうか。
    もう一度言います。私宛てに「貴方の事情」を釈明するのではなく、既にこの記事を目にしたかもしれない、病に苦しむ方々に向けて、新たにメッセージをいただきたいと思います。
    そしてもう一つ、脳死移植を推し進める人々が、なぜそのように行動するのか。また、なぜ自分がそれに同調できないのか、どういう自分だから同調できないのかを、しっかり考えていただきたい。もし貴方が、自分のエゴを見つけ出すことに耐えられたなら、きっと多くの理解が得られることでしょう。

  9. どうして「脳死、あるいは植物人間状態にある患者さんが経済的な理由で延命治療を受けられず臓器提供の意思表示がない場合、治療費は全て国が負担する」という法律、意見がないんでしょうね?
    自己犠牲云々よりも、よっぽど楽な社会貢献に思えます。

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