「花はどこへ行った?」オランダ・ハーグより / 春 具
以前の記事(配信日:2009-08-14)だが心に強く残ったので。
今年の7月25日、Harry Patch ハリー・パッチ氏が亡くなった。享年111歳でした(1898-2009)。
といっても、ハリー・パッチ氏の名前を知る読者はまずおられないのではないかな。わたくしも実は新聞で読むまで彼のことは知らなかったのですが、パッチ氏は、政治家でも俳優でもアーチストでもなく、サッカー選手でもクリケット選手でもない、一介のイギリス市民であります。
パッチ氏は二つの世界大戦(1914-1918、1939-1945)を戦った世代の最後の生存者であります(パッチ氏が亡くなる一週間前、ヘンリー・アリントンというお年寄りが113歳で亡くなっています。彼らがあいついで亡くなったことにより、第一次世界大戦を身をもって知る世代はイギリスにいなくなってしまったのであります)。
近代の戦がかつてなく大規模になった結果、兵士、侍といったプロではなく一般市民が駆り出され、その裏ではいわゆる軍需産業などが莫大な利益を上げている。
しかも、殺人の自動化は我々の想像をはるかに越えて進んでおり、かつて互いの命のやり取りであってその行為の中にでさえ尊厳があったものが失われてしまっている。
パッチ氏は機銃を扱う技術に長けていたが、もともと好きでなった兵隊ではありません。それで、戦場で「人を殺す」ということがどうしても理解できないでおりました。
あるとき、向こうの塹壕からドイツ兵が撃ちながらこちらへ迫ってきたことがあった。パッチ氏は相手を狙い、正確に肩に弾を撃ち込むのです。ドイツ兵は倒れながらも、さらに迫ってくる。撃たなければこちらが殺されるというとき、彼はこんどは敵兵の足を撃つのです。パッチ氏ほどのスナイパーの腕をもってすれば、至近距離の敵を撃ち殺すことは簡単なことだった。が、「なぜか、わたしは彼を撃ち殺すことができかったんだ」と、後年、パッチ氏は言っております。
1917年9月22日。彼の部隊はドイツ軍の大きな攻撃を受け、パッチ氏たちのいた塹壕に砲弾がおちて、隣にいた3人の兵士は即死してしまう。彼らはタバコや靴下を分け合い、笑いあっていた仲間だったのでした。
パッチ氏も傷つき、後方へ戻される。
そして入院するのですが、このことがパッチ氏の戦争観を決めた。なぜ親友が死ななければならないのだろう。なぜおれが傷を負わなければならないのだろう。おれたちが何をしたというのだ……?
メッセージというのは、ときに語るよりも語らないほうがインパクトがあることがある。歴史上いちばん残虐で悲惨だったといわれる第一次世界大戦を体験しながらも、彼がその戦争について沈黙を続け、一切語ることがなかった、そのことはなににも増して鮮烈な反戦のメッセージではなかったか、とわたくしには思えるのであります。それだからハリー・パッチの弔報は、一面のニュースの価値があったのだと思うのです。
ゴードン・ブラウン首相が「パッチ氏を悼む」として、「ハリーはもっとも勇敢なイギリス兵の最後の世代だった。偉大なヒーローだった」と弔辞を述べておりましたが、そのような言葉を、いまもアフガニスタンやイラクへ次々に若者を送り出している為政者の口から聞くと、その型どおりの文句に、戦場に行くことはない為政者の「何かを言わなければいけないから、何かを言う」という「姑息さ」を、わたくしは感じてしまうのであります。
先日、NHKの番組で日米安保に関するスタジオ討論会があった。
“戦争を放棄した”日本が防衛上アメリカの傘の下にある現実は、正しいのか?間違っているのか?
簡単な問題ではないが、度の過ぎた「グローバリーゼイション」が本来一地方の金融破綻であるべきものを全世界に深刻な影響を及ぼし、あるいは致死に至る病原菌を瞬時に地球上にバラ撒く結果になってしまっていることと、決して無関係ではない。
流通や兵器の発達は、原油の発見及び利用とともにあった。しかし、「ピークオイル」を迎えたとも言われる今、それは明らかに転換期に来ていると考えるべきであろう。
代替エネルギーの開発でもよいが、それよりも我々の価値観の転換を図る方がより現実的だ。
それがより困難な道であっても。