中沢新一『人間と自然「対等」に』を読んで

今日の宮崎日日新聞文化面より。

十数年ほど前、日本の経済が上り調子で、世界中の注目を集めていたとき、日本への「愛」を感じていた西欧の知識人の多くが口をそろえて、こう語っていた。日本は現代的な科学技術や経済を発達させながら、同時にきわめて古くからの精神文化を保存しており、そのふたつの異質なものの間に、よそでは見られることのない調和を実現している、と。(中略)さてあれからだいぶ時がたって、その間におこった日本を取り巻く状況の変化に思いを致してみるとき、あの褒め言葉の中に、今でも私たちが失ってはならない重要な真理が含まれているように、思われてならない。

ひとことで「古い精神文化」と呼ばれたものの中身は、実際は人間と自然の関係のつくり方のことをさしていた。この列島上に形成されてきた文化では、自然を人間から分離したり切り離したりして、それを人間の好き勝手に利用できるものとして扱うことを否定する精神が、発達していた。

この精神は、生活のいろいろな分野で生かされていた。主-客の違いを強調することなく、「私」というもののふるう権限を出来るだけ縮小して、動物や植物が主張する自然の側からの要求を受け入れつつ、異質なもの同士が妥協点を探るという形をとおして、人間の生活圏を、自然の中につくりだそうとしてきた。

古い言葉で言うならば、「小欲知足(欲少なくして足るを知る)」ということになろうか。

ところが、一方的な発達を遂げた科学技術と情報化された資本主義の世界では、いたるところで極端な形にまで肥大をとげた「非対称的」なる状況が、広がっている。富むものはますます富み、貧しいものはいよいよ貧しくなっていく。

自然はすでに人間にたいして語りかけることもなく、空恐ろしい沈黙の中で、とめどもなく不毛化していこうとしている。これほど情報化の進んでいる社会で、人間と自然のあらゆる分野において、コミュニケーションの回路が閉ざされていこうとしているのである。

ここで僕は、宮崎駿監督作品「もののけ姫」を思い出さずにはいられない。(ちなみにこの作品以降、巷の評価とは別に、宮崎作品は僕にとってそれほど興味を引くものではなくなって行く)

支配するものと支配されるものの関係を不動のものにつくりかえていく、非対称的な状況の中で、動物も子供も弱いものも貧しいものも、語るべき言葉を奪われて、世界への憎しみを込めて沈黙の殻に閉じこもっていく。

このようなコミュニケーション不全に覆われた世界で、彼らが自分を取り囲んでいる状況を打破しようとして、選びとることのできる手段は、ごくごく限られていて、しかもその多くがテロリズムのように悲劇的だ。

そこで私は、こう思いたいのである。かつて世界の心ある人々に賞賛されたことのある、日本文化の持つあの美点は、まだ完全には死に絶えてはいないのだ、と。

私たちの思考と感情の奥には、この世界から失われた対称性を回復して、人と自然とモノとの間に、コミュニケーションの回路をよみがえらせたいという願望が、まだ力強く息づいている。そして、その願望をこめて、次の時代の技術と経済の形を、みずから作り出していく能力を、私たちはまだなくしていないはずである。

私たちの文化の中に、世界に貢献できるものなどは、ほとんどない。しかし、人間と自然の関係のつくり方についてだけは、余人にまねのできない才能を受け継いでいる。対称性の思考にもとづいた技術と経済のシステム。そういうものが実現できたとき、それはニッポン国が人類に送ることのできる、最大の贈り物となるであろう。

新聞への寄稿記事とあって、著書より具体的かつ分かりやすい命題と語り口である。

そんなことよりも重要なことは、日本人が古来より、自然と一体となって生活してきたことの重要性である。

自然と一体となって生活してきたのは、何も日本人だけではあるまい。

イスラム世界の人々は、過酷な自然と、それこそ争うことすらできずに悠久の時を過ごしてきた。イスラム教は単に心の拠り所というものにとどまらず、砂漠の生活での規範までを示している。それで上手くやってきていたのだ。

また、極北ロシアの人々は、広大な土地がありながらやはり厳しい寒さの中で、共産主義の道をかつて、選んだ。社会システムという面で、社会主義が悪かった訳ではない。結局、人間の性質を見つめることを怠ったために起きた、ペレストロイカだった。そして今、再び中央集権的な政策に戻ろうとしている。

この地球上で最も豊かに自然の恵みを受けている(と理解することが必要だ)日本人が、かつて、自然との「対称性=バランス」を重んじたことを忘れてはならない。

中沢新一氏の紹介記事はこちら

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