戦時下のリアリティー

26日付宮崎日々新聞、「大塚英志さんに聞く/“戦時下”のリアリティー」を読んで。

この記事を読むまで、大塚氏について何も知らなかった。顔写真も出ているのだが、見覚えがない。というわけで、先入観なしの状態でした。

「私たちはだまされたり、銃を突きつけられたりして、派遣に同意させられたのではない。占領軍として自衛隊という名前の軍隊を送り込んだのは、私たち『有権者』なのです。それを出発点にしなければならない」

大塚氏は、民俗学者の柳田国男が昭和初期に、普通選挙下で、多くの人々が地域の実力者と相談して投票したことに激怒した例を挙げた。

「柳田は、私たちは一回きちんと『個』にならなければならないと言った。そうならなかったから、かつての戦時下の人たちは進んで同じ方向に行った。今も同じように感じられてならない」

戦後に柳田は、戦争の反省として「言葉の技術」を持たなかった、と指摘した。大塚氏もまた

「現在も言葉が信じられていない。それが危機です」と強調する。

政治の中で言葉が軽んじられる。小泉純一郎首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と答弁した。

「しかし、そうした詭弁(きべん)を詭弁と分かりながら容認する私達の方が、実はよりたちが悪い。失笑で済ますことで、自分は関係ないとしている。それは反則だ」

うーん、耳が痛い。

社会からの言葉の喪失。それは「空気」という言い回しに表されている。

「若い人が他人を批判する時、『空気を読め』という言葉を好む。空気(雰囲気)を読むことが美徳になって、自分の言葉を発したり、異論を言えなくなっている」

皮肉に感じるのは、戦争に向かう昭和初期と現在の文化状況が似ていることだ。当時のミッキーマウスなどのキャラクターブーム、太宰治の「女生徒」のような女性の一人称文学。対応するように今、オタク文化が隆盛し、芥川賞最年少受賞の綿矢りさが人気を集める。

そうした文化に共通するのは「『私』という内面の肥大」だという。

「外側で進行している現象に目を背けようとすれば、一人称を肥大させるしかない。私を分かってと言うが、自分と違う誰かを分かろうとしない。太宰は戦争責任を問われないが、戦時下の状況をやり過ごした。私は、確信犯として太宰的に振る舞う綿矢りさを評価するが、問題はそれに乗って行く側だ」

「物を書く立場になったら、危うい状況に何か言うのは最低限の社会的役割。でも発言したのは、沖縄で隠遁していた池澤夏樹さんや、片岡義男さんらエンターテイメントの人たちだけ。その状態が文学の危機」

名古屋地裁のイラク派遣違憲訴訟の原告に加わった。

「憤っても仕方がないので、自分はさっさとやるよ。その程度です」と話す。

中高生に憲法前文を自分の言葉で書いてもらい、本にする仕事を続ける。

「十代は、初めて有権者として投票する時、憲法改正の判断を迫られる可能性が高い。自分で前文を書けば、自分で判断出来る。そういう有権者を百人でも作れば、よりましな選択になっていくだろうと思う」

「有権者のリハビリテーションが必要」

と大塚氏。自衛隊派遣という“自らの選択”を問い直すことが、求められている。

一市民として、よくよく考えさせられる記事である。では、自分に何が出来るのか。僕には、即答出来ない。しかし、考え続けること、は出来る。そして、一票を投じることも。

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