食べること

[Stranger 012] 個人と社会 その4 by 池澤夏樹を読んで。

池澤さんのメルマガは、「新世紀へようこそ」の頃から愛読している。池澤さんは沖縄から、フォンテーヌブローといって、パリの南南東50キロほどのところにある小さな町へ移り住み、そこでの生活風景を中心に、エッセイを綴っていらっしゃる。

今回は、その食生活について。

フランスの田舎町での、「缶詰と冷凍食品以外」は何でも揃う市の風景が、克明に記されている。食いしん坊な僕など、文章を読むだけで、よだれが出てきそうになる。


普段、仕事をしていると言うのは言い訳だが、母親の世話になっている。ただ、一人暮らしが長かったり、弟子入り先のお師匠が、下手な板前が泣いて逃げ出すほどの腕前だったので、包丁が使えないわけではない。

時々、家族や客にサービスしたりもする。

そんな僕が言うのもなんだが、美味しい料理は、いい素材を、めんどくさがらずに下拵えすることが肝心、じゃないかなと思う。

僕の好きなものは、素材の旨さが味わえるもの。いい刺身だったり、いいサラダだったり。汁物も、塩を少しだけ、といったもの。いい出汁をとれば、それで十分。

うちの両親は、どちらかと言うと濃いめの味を好む。田舎ではたいてい甘辛い味付けだ。僕も、子供の頃はそれが好きだった。しかし、親元を離れ、自炊したり、いろいろと自分のこと、世界のことを考えていくにつれ、味覚も変化して来た。

簡単に言えば、より薄味になった。

実家でも、父が体調を崩した時期には、菜食主義を通したこともあった。あれも、慣れるといいもんです。というより、久しぶりに肉を食べたりすると、身体がだるくなったり、睡魔に襲われたりする。あれは不思議なもんだ。手軽に、食が与える身体の影響を体感できる。

現在は、特に菜食を意識していないけど、父が家庭菜園で野菜を作ってくれているので、季節の野菜ばっかり食べている。肉や魚が食卓に出ない日も、珍しくない。しかし、全く不満はない。どころか、ああ美味いなあ、と幸せを感じている。

現在僕が住んでいる綾町というところは、有機栽培の野菜で有名な町だ。僕の育った町は港町だった。始め、この地に来た時、美味しい干物が食べられないことを嘆いたが、そのかわり、美味しい野菜にありつけた。

しかし、だ。

池澤さんが書かれているように、綾に限らず日本の小さな田舎町で、フォンテーヌブローにあるような市が、町中に立つことは、今では珍しいことになってしまった。いや、「市」がある、というだけで格安国内ツアーまで出てくる始末だ。

人口8,000人足らずのこの町にも、24時間営業のコンビニとスーパーがある。そこでは、「市」での会話を介しての買い物の楽しみを味わうことは無い。

食べること、は生きていくために不可欠なことである。世界中のあらゆる思想の根底に、「食べること」がある、と言っても言い過ぎではあるまい。日本人は、恵まれすぎた食環境の中で、「食べること」について考えることを止めてしまっていないか。

アメリカ

アメリカ

藤原 新也

藤原新也さんは「アメリカ」の中で、アメリカ原産(?)のファーストフードについて、面白い考察をしている。

しかし、僕など、田舎生まれの田舎育ちでは当たり前のように、地元で作られた野菜や、穫れた魚肉を食べているけど、都会に生まれ、都会に育った人たちはそういう訳には行くまい。コンビニ弁当や、ファミレスで育った人は、いったいどう田舎の人間と違ってくるのだろうか。それとも、そんなことは関係ないのだろうか?

さて、この先がむずかしい。

ぼくは自分がうまいものを食べていると自慢しているわけではない。日本からフランスに来た以上、何かと比べることになるのは当然で、そうするとどこが違うのかと考えたくなる。消費の場から言えば、お互い顔を見て売り買いする点が最も大きく違う。(中略)

こういうことを書きながらぼくが比較しているのはスーパーマーケットだ。(中略)

日本のことだけを言っているのではない。

薪のところで書いたように、この町にもスーパーマーケットはある。

営業時間は長いし、缶詰やジュース類、それから薪など重いものを買うにはとても便利だ。

ハムや肉類でもプラスチックで包装されたものが並んでいる。

しかし、歩いて10分のところにマルシェがある今、新鮮なものをスーパーで買おうとは思わない。

素材がよくて調理が簡単な分で節約できた時間を買い物に当てる。

しかし日本はスーパーマーケットばかりになってしまった。

そこが問題なのだ。

なぜ個人商店があんなに減ってしまったのだろう。

八百屋や肉屋や魚屋はどこへ消えたのか。

もちろん探せばあるだろう。

言葉を交わしてものを売り買いしている人たちもいるだろう。

しかし買い物の基本は今やスーパーだ。商品は棚一杯ならび、選択の幅はとても広いように見えるけれど、品質はある一定の線を決して超えない。

まして、この間の鰯はおいしかったという言葉は生産者に届かない。

しかしフランスは車だけでなく、農業の方も重視してやってきたのだ。

生活を考えかたの土台に置いて、その中で食生活と車の利便のバランスを考えた。

だから、穀物や野菜、肉類やワインやチーズの質は決して落とさない。

その代わり、駐車の不便や埃まみれの車は我慢する(それでもフランスの車は運転していて楽しい)。

ぼくは新しいぴかぴかの車を運転する喜びよりも食べる喜びの方を選ぶたちだから、この国に来てけっこういい気持ちでいる。

時おり郵便が迷子になる不便を我慢するつもりになっている。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください