TOKYO

Overdose

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ピチカート・ファイヴ

great white wonder RARE MASTERS 1990~1996

great white wonder RARE MASTERS 1990~1996

ピチカート・ファイヴ

Pizzicato Fiveの音楽は、おしゃれでポップで心地よい。別段都会で聴かなくても、“都会的な”感覚を味わえる。ただ、聴いていて「東京」を俯瞰するような、クォータービューで覗くような感覚に襲われる。

それは、ピチカートの中で、「トウキョウ」が創られたものであるからである。それは、小西康陽という、類い稀なセンスを持ったミュージシャンの持つイメージに他ならない。これほど、「トウキョウ」を商品化した人物は、そんなにいないだろう。

地方に住んでいるので、なおさら感じるのかもしれないが、何か外国人が夢みる「トウキョウ」の素敵なイメージアルバム、そんな感じである。


そういえば、と思い立ち、書棚を覗く。「X-Knowledge HOME vol.7」を引っ張り出す。サブタイトルは「TOKYO In The Cold Of The Night 60年代の混沌に眠る-凍れる建築たち」。

このムック本の中で、60年代の高度成長時代の日本、とりわけ建築に限って、編集部なりに検証している。

写真が、素晴らしい。とりわけ、僕の興味を引いたのは、丹下健三の東京カテドラルである。

しかし、この本の核心は、そういった優れた建築の紹介、ではない。

「トーキョー-未来の都市風景-/森川嘉一郎」の項では、

未来の都市風景がどのようなものになるかを予想しようとするとき、10年か20年くらい前までなら、建築家の作品の動向を見ていればよかった。建築家たちの流行を組織設計事務所が取り入れ、さらに遅れて建設会社の設計部が模倣する。このようにして、町には一昔前の作品の甘いコピーがたくさん立ち上がってきた。(中略)

都市風景は、基本的に巨大な資本と行政的権力によって決定される。そしてそうした権力機構、特に日本のそれは、昔の王族などとは異なって趣味的な意志を欠いている。ゆえに建築デザイン界という権威機構が照会され、ミース(ファン・デル・ローエ)風のデザインが採択される。この構造の最も典型的な現れが、西新宿の超高層ビル群の風景である。国家的プロジェクトとして大規模な開発が行われ、行政主導の下、大企業がその資本の大きさをビルの高さとして表現して出来上がった景観である。

ところが80年代のバブル期になると、民間大企業が主体となったコマーシャリスティックな開発が興りはじめた。これは、60年代の行政的なそれとはまた異なった相貌を街に与え出した。その代表は、渋谷や池袋である。(中略)「無印良品」に代表されるように、そこではライフスタイルそのものが街と連動する形で捏造され、若者を市場開拓するための巨大な舞台装置としての機能が付与されたのである。

その際に参照されたのは、建築家の作品ではなく、ディズニーランドである。採用される文化的権威が、アメリカの建築デザイン界から、アメリカの大衆文化にすげ替えられたのである。ハイからローにいたるまで日本はいまだアメリカの文化的植民地であり、文化的権威が外在化されているという側面において連続してはいる。しかし未来の都市風景を占う上で、これはきわめて大きなシフトであった。そしてこの時期には民間企業主導の開発だけでなく、各地の行政主導の街興しにおいても、ディズニーランド化が見受けられるようになったのである。

森川氏によれば、この兆候は60年代末から既に現れ、90年代にピークを迎える。

こうした動きはポストモダン・スタイルと言う、装飾的なデザインの流行となり、これもまた日本にたくさんコピーが出現した。しかし、大衆文化を引用して建築家たちがデザインした作品からまた引きすることと、直にディズニーランドをモデルにすることとが等価になるのも、また時間の問題であった。

さらに興味深い記述が、「東京-無意識の想像力/伊東道生」である。

東京が「見えない都市」(磯崎新)としても、それは、多面的な相貌だから、捉えきれないのか、仮面を付け替え、その下に素顔がないのか。それともそもそも相貌がないのか。かつて私は、都市のリアリティとは、メディアの逆噴射である、と述べたことがある。(中略)都市は、メディアによって描かれることでリアリティを獲得する。(中略)都市イメージは雲散霧消もしくは細分化される。(中略)渋谷が<過剰に>東京を意味させられ、浅草が<過剰に>江戸=東京を意味させられている。

最近の映画やテレビといったメディアは、どういう東京を描いているのだろう。どこにもあり、どこにもない都市でしかないか。

伊東氏は、都市の危機とは、自然災害や、有事での<外>からの崩壊だけでなく、<内>からの破壊、つまり「個人に即していえば、ネットワークを単一にしか理解できない、記号が一つの意味しか理解できない、記号が一つの意味しか働かないこと、そして空間コンテクストを読む想像力の崩壊」だ、という。

そして、本は最後に、北欧のミッドセンチュリーデザインの椅子たちが、「夢の島(と、今でも呼ぶのか知らないけれど)」のゴミの中に置かれている写真で締めくくられる。

僕は、デザインの中でも、北欧の椅子のデザインに最も惹かれる。特に、アルネ・ヤコブセン。彼のアントチェアは、機能と美しさを極限までシンプルに仕上げた、傑作だと思う。彼に限らず、時代を超えた優れたプロダクトを、北欧のミッドセンチュリーのデザイナーたちは残している。

そして、編集後記のT.M.氏の記述。

大規模マンションの建設を担当する友人に、話を聞く機会があった。

画一的な間取りや設備、素材、安直なマーケティングによるお仕着せの生活スタイル-。そんな方法が良くないことぐらい、作る側も売る側もみんな分かっている。ただ、業者間の付き合いやコストなどの現実を考えると仕方がない。夢では商売できない。もっと現実を分かってくれ、という。

このようにして、入居する300世帯の住居や家族の暮らし方、人生は方向付けられ、日本の都市や、未来の風景は形成されていく。

ピチカートの「トウキョウ」は、ミッドセンチュリー的な世界観に溢れている。これも、「描かれることで獲得されるリアリティ」と言えるだろう。だから,田舎に居ても、聴ける。ただ、小西氏の場合、本人が好きで楽しんでいるわけで、それにこっちも乗っかって楽しんでいるわけだ。つまり,ピチカートは高度な「シャレ」ともいえる。

「マツケンサンバ」?うーん、聴いてない・・・・「ルパン」は好きだね。

「TOKYO」への1件のフィードバック

  1. 追記。
    年に1、2回、仕事で上京します。最初の2、3日は用事を済ませたり、いろんな刺激があって楽しいんだけど、それ以上は、苦痛の方が強くなってくる。
    僕にとっては、あまりにも光や、音や、様々な情報(過度に刺激的な、自分が求めると求めざるとにかかわらず突きつけられる)が多すぎるのだ。
    普段田舎で暮らしている=自然環境の中で暮らしている身には、とても「自然=nature」な環境とは言い難い。しかし、東京に暮らしている人たち、とりわけそこで生まれ、生活している人々、東京が「故郷」である人たちにとっては「自然=ordinary」な環境である。
    都市空間が人の精神や肉体に及ぼす影響は、一体、どのようなものであろうか。
    そういう思考とは別にして、ピチカートはいいなあ。ただ、「ルパン」の方がさらに好き勝手やってる分、完成度も高い。
    「エアプレイン」は聴きやすいMats&Morganだね。
    http://www.musicterm.jp/poseidon/mm/index.html
    「If I were a groupie」」も好き。「東京は夜の七時」から「世界中でいちばんきれいな女の子」までの流れは秀逸。男でも、この女の子に感情移入してしまいますなあ。しかし次の「クエスチョンズ」は凡庸なポップス。ひょっとしてわざと?
    しかし、例えば「エアプレイン」のような女の子が実際いたら、どうかなあ。お知り合い、まで?だから、「シャレ」で聴いた方がいいんだよな。うん。

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