理想と現実

9日付宮崎日々新聞記事より

大塚英志さんが、「自民党新憲法草案を読んで」という文を寄せられている。


まず、大塚さんは自民党を大勝させた我々の愚かさを嘆いている。

「郵政民営化」が争点と信じ込まされた先の「郵政選挙」で、しかし有権者が選んだのは憲法改正のための国民投票を発議することのできる議会であった。そんな「民意」を示したつもりはないと憤ってみたところで「憲法改正に向けて具体的に動きます」とマニフェストにも書いてあったのだから自民党が新憲法草案を出してくるのは当然である。

そして、草案の「前文」の「腰の定まらなさ」を嘆く。国民主権と民主主義、自由主義、基本的人権の尊重及び平和主義、国際協調主義と、「主義」という言葉をずらっと並べた草案と、「主義」という言葉が全く使われていない現行憲法の「前文」を比較する。

僕なんか、法律に関しては全くの素人なので、よくわからないことが多い。「なんとか主義」と言われると、ああ、あれね、と分かったような気になるんだけど、よく考えると、よく分かってなかったりして。主義、ってずばっといわれると無条件に納得してしまいがちだけど、じゃあ、その言葉が何を意図されて使われているのか、よくよく注意しなければならない。

現憲法前文には、なるほど、主義という言葉を一度も使われていない。ある意味、くどいくらいに細かく書いてある。人によっては「冗長」と感じるかもしれない。しかし、それは具体的に書いてある、ということだ。

対して自民党草案では、特に前文について

○翻訳調の現行の前文の表現を改め、前文の文章は、平易で分かりやすいものとし、模範的な日本語の表現を用いるべきである。

○一つの文章が冗長にならないようにすべきである。

としている。

要するに、具体的に書いてはだめだ、ということ?平易で分かりやすいもの、とするなら、先に上げた「四つの主義」についても、具体的に、“平易に分かりやすく”内容を盛り込むべきだろう。主義、と使えば「模範的な日本語」であるということにはならない。言わなくても分かるだろ、では分かりません。

大塚さんは二つの「前文」の違いを、

自分たちがいまだに達成出来ていない「崇高な理想」に向かって努力しようと言っているのであり、その「主義」と「理想」の語られ方の違いは大きい。「主義」ばかりで「理想」の語られない「前文」はいかがなものか、と感じる。

とする。

よく、大人の方から「理想と現実は違う」というお言葉を頂戴する。確かに、自分の甘えを肯定したいがために、やるべきことから逃避するのは、自分のクビを絞めるだけのことだ。

しかし、こと憲法の前文というものは、法律のどのような位置づけになるのだろう?

素人の理解では、憲法とは社会のあるべき姿を明文化したもの、と思っている。そこでは「理想」が述べられ、「現実」に対処するために一般の法律が存在する。一般の法律の方向性を定めたものが憲法であるならば、そうあるべきじゃないのか?

だから、よく裁判では憲法判断が争点になるんじゃない?それは、憲法のベクトルに違わないか、ということでしょ?とすれば、憲法が曖昧では困るわけで。

その前文だから、この国の憲法を宣言するにあたって、このような方針ですよ、とうたっているものだろうと思う。

考えてみると、自民党草案通りになったとして、裁判で憲法判断がされる時、「それは自由主義に反する」「国際協調主義に反する」というのも、よく分からない。じゃあ、自由主義とは、国際協調主義とは、という議論になってくる。

「現実=現在の実状」が満足され、かつ永続性のあるものであれば、「理想」を掲げる必要はない。

僕らが子供の頃、東西冷戦のまっただ中だった。ベルリンの壁も存在した。北朝鮮による拉致事件も、あった。そのような時代のトンネルを、「武力を持たず」という理想を掲げて、日本はくぐって来た。

今、大国ロシアとアメリカの、際限ない核拡散競争は終わり、東西ドイツも統一された“現実”の中で、今さら「自衛軍」を持つ必要があるのか、憲法を改正する必要があるのかが、さっぱり理解出来ない。「国際協調主義=自衛軍」という安易な論理を受け入れるほど、僕らは単純ではない。

最後に大塚さんは恐ろしいことを明らかにする。

例えば、「自衛軍」の「任務を遂行するための活動」「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」「公の秩序を維持し、または国民の生命若しくは自由を守るための活動」そして「組織及び統制」についてはどれも「法律で定める」と記してある。つまり、すべては法律に「丸投げ」されているのであり、これは、「解釈改憲」でなしくずしに行ってきた憲法の拡大解釈をこれからもやっていいよと憲法が認めているようなものだ。

マジですか。

僕は九条の改正には全く反対だが、しかし賛成する人は「自衛軍」が「軍」である以上、その行動にいかなる制限を与えるかについて憲法は少なくとも理念のレベルで明記しなくてはまずいぞ、と冷静に考えてほしい。

ぼくは以上の理由から、「軍」を律すべき憲法とはいかなるものか、ということに全く考えの及ばない現状追認と「丸投げ」からなるこの草案を肯定することは、護憲、改憲どちらの立場をとっても、自分たちの社会に対する責任を全うすることにならないと考えている。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください