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2009年11月25日 14時37分31秒
23年間植物状態と思われていた男性に実はずっと意識があったことが判明
1983年11月に自動車事故にあって以来2006年まで昏睡状態にあると信じられていたベルギー人の男性が、実はその23年間ずっと意識があったことが明らかになりました。
事故当時20歳だったRom Houben氏は現在46歳、身体は麻痺(まひ)状態にあるのですが理学療法によりわずかながら運動機能を回復し、コミュニケーション用の特別なコンピューターにより忍耐の23年間を語っています。
詳細は以下から。
Belgian Man Trapped In Coma For 23 Years Was Conscious Throughout
I always knew he could understand, says mother of man locked in ‘coma’ | Science | The Guardian
事故のあった1983年当時ベルギー・ゾルダーの医師たちは国際的に認められているGlasgow Coma Scale(グラスゴー・コーマ・スケール:開眼・言語・運動の3分野による意識障害の評価分類スケール)を用い、再三にわたりHouben氏を診断しました。しかし、Houben氏は毎回植物状態であると不正確に分類されてしまったそうです。
事故前のHouben氏(当時20歳)。4カ国語に堪能な工学部の学生でした。
「周囲の人々に意識がないと思われていると気付いた時、最初は非常に怒りを感じました。しかし我慢することを学ばざるを得ませんでした」と現在46歳のHouben氏は語っています。事故後に意識を回復した時、Houben氏は体が麻痺していることに気付き、医師が言っていることはすべて聞こえるのに、コミュニケーションをとることができなかったそうです。
「叫んでも叫んでも声が出ないのです。夢を見るしかありませんでした」と車イスに搭載された専用コンピューターのタッチスクリーンで語るHouben氏。このコンピューターを使い横になったまま本を読むこともできるそうです。
麻痺は事故後に数分間心臓が停止し、脳への酸素の供給が絶たれた結果でした。「わたしが感じていたものは、フラストレーションという言葉ではとても言い尽くせません」とHouben氏。違った人生を夢見て日々を過ごし、瞑想(めいそう)することで乗り切ったそうです。植物状態は誤診であるということに医師たちが気付いた時には、生まれ変わったような気持ちになったとのことです。
息子に完全に意識がないとはどうしても信じることができなかった母親のFina Houbenさん(73歳)は、3年前に最先端の脳の専門家にコンタクトをとり再検査を依頼しました。リエージュ大学のSteven Laureys博士がHouben氏の脳をスキャンした結果、脳はほぼ正常に活動していて、身体は動かせないものの、Houben氏は自身の身のまわりで起きていることは完全に把握しているということが明らかになりました。
息子は悲観してはいない、とFinaさんは語っています。「彼は楽観主義者。人生から、得られるだけのものを得ようとしているの」
BMC Neurology誌に掲載された論文でHouben氏のケースについて触れたLaureys博士は、「医学の進歩がHouben氏の症例に追いついた」と語り、Houben氏のように間違って植物状態と診断され、なんとか意思を伝達したいと切望している患者は世界中の病院のベッドにいるのではないか、と示唆しています。
Laureys博士らの研究では、植物状態と分類された症例のうち誤診の割合は、現在でも15年前からほとんど減っていないことが明かされています。
研究では意識状態がVegetative State (VS)またはMinimally Conscious State (MCS)と分類された症例について、観察に基づく医療チームの統一見解による診断と、意識状態を神経行動学的に評価する分類スケールJFK Coma Recovery Scale-Revised (CRS-R)による診断を比較しました。その結果、医療チームの総意でVSと診断された患者44人のうち、CRS-Rによる診断では18人(41%)がVCより軽いMCSに分類され、4人(10%)がMCSよりさらに軽症であるということが明らかになりました。
「脳死は人の死か」という議論は友人の医師によるとたかだか数十年のものだそうだ。その程度の知識や論議で「死」という問題に結論を出そうという事自体、浅はかと言わざるを得ない。
念の為断っておくが、ここで論じようとしていることは脳死と植物人間状態の違い云々ということではない。
僕は生き物の生死を科学が本当に解明出来ているのか疑問だ、故に意識がない、反応がない、脳波がないという事が人の死を意味しているのか疑問だ、と言っているのである。
誤解なきよう。
閉じこめ症候群という体験は、我々の想像を絶するものと思います。Houben氏にとっては「絶望」というより他なかったでしょうし、現在も重度の障害をお持ちなわけですから、今もなお過酷な体験が続いていることでしょう。自分に置き換えて考えれば、とても耐えられそうにありません。意識のある自分が無視され続けたのを恨むのではなく、動けない自分が母親の力になれなかったことを詫びる彼のような心には、どのようにすれば到達することが出来るのでしょう?
同時に、短期間のうちに命を落とすことが多いとされる閉じこめ症候群のHouben氏を、誤診があったとはいえ23年後になっても意思疎通が出来、車椅子にも乗れるような状態で体調を維持することが出来たわけで、それを実現した母親の介護や社会福祉に驚きを覚えます。果たして日本で同じようなことが可能かどうか。
さて、TKさんの主張に関する話に移ります。
「浅はか」という言葉は、よくよく考えてから口にすべきです。TKさんは「数十年」真剣に議論を続けてきた人々に「浅はか」という言葉を選んで貼りつけるのに、「何分」考えましたか?
(A) 「脳死」と「植物状態」は全く異なるもの。
(B) 「生」「死」に関する絶対的な定義は不可能であること。
(C) 脳死状態にあるかどうかは現在の医療技術でも相当高い確率を以て推測できるが、100%ではないこと。
(D)現在の医療技術では、脳死判定による臓器移植以外の方法では救えない命があること。
こうした事実から、脳死移植推進論者は、「植物状態」でなく「脳死」状態の患者さんに限り、ご本人または御家族の同意があるという条件の下で脳死移植を行うという配慮をしているのです。この配慮は、TKさんが疑問だと訴える(B)(C)についての充分な理解があるからで、TKさんがいちいち(C)について個別の例を持ち出すまでもありません。TKさんがもし(C)の見地から脳死判定を受けたくないと思うならば、ドナーカードに「脳死判定を受け入れない」と書いて携行するか、あるいは身近な御家族に「自分には脳死での死亡判定はしないで欲しい」と話しておけばよいのです。また、御家族に脳死判定をされたくないなら、TKさんが主治医にそう伝えればよいのです。
ただ、私が改正臓器移植法A案に問題があると考えるのは、これまではドナー候補を「脳死判定による臓器提供を受け入れる」と表明した人に限る、とされていたところを、あらかじめ「脳死判定による臓器提供を拒否する」と表明していない限り、脳死移植ドナーとなることを受け入れたものとみなす、と改正されたところです。誰にでも「誤診で殺されたくない」という気持ちがあるのは当然ですから、この「みなし」には違和感を覚えます。現段階では、臓器移植法が改正されたことを「定額給付金」なみの勢いで国民に周知しようという動きはみられませんし、脳死判定を受け入れるかどうかの判断に役立つはずの、「脳死判定誤診率」がどれだけの数字になるのか、国民全員に広く公表されるという動きもありません。
しかし、だからと言って脳死移植推進論者が「自己中」とは言えないのは、まず「彼ら自身も脳死判定を受ける覚悟がある」という部分によります。また、繰り返しになりますが、脳死移植推進論者は、必ずしも自分や自分の家族を助けるためにという「自己中」な思いだけで行動してきたのではありません。「いま苦しんでいる人を助けるために法整備しようと行動を始めても、その人のために間に合うとは限らない」という話は、前回のエントリーにコメントしましたね?TKさんが「たかだか」と称する「数十年」の議論の間に、大勢の患者さんが亡くなっているのですよ。
おそらく、TKさんは「たかだか」にそんな意味を込めたつもりはない、と仰有るでしょうが、その数十年の間に御家族を亡くした方がTKさんの文章を読んだら、そうは受け取れないでしょう。むろん、臓器移植でしか助からないと宣告された患者さんがTKさんの文章を読んだら、自分が生きたいと願う、そのために協力してくれる人々や、生きたいという願いそのものを「浅はか」と軽蔑されたと思うことでしょう。
TKさんのBlog記事は、公に向けて発信されているものです。私信ではないのですから、個人の意見だからと言って何を書いてもよいというものではありません。早急に以前のエントリー「自己中社会」と併せて、自分の書いた記事、つけられたコメントをしっかり読み直し、再検討して、新しい議論を生み出すべきです。それが「再論」というものです。
ご参考までに、たった今「脳死再論」でGoogle検索してみたら、TKさんの「脳死再論2」が2番目にリストアップされました。速やかな「再論3」の執筆を願います。
>Broccobirdさん
あなたに対する反論は、もはや水掛け論にしかならず火に油を注ぐ結果にしかならないので簡潔にします。
人の「生死」を現代の医学では“たかだか”数十年しか論じていないのでしょうが、人類はその創世からこの問題を考えて来ているのですよ。
あなたの専門分野だけの知識で、判断する事はその立場上危険な事です。
あなたは「誤診」と言っているが、23年前は「誤診」ではなかった。
それだけ現代の科学とは完全なものではないし、未熟なものであるという自覚がそれを扱う立場では必要ではないでしょうか。
なによりも、例えば目の前に臓器移植が必要な患者さんが居たとして、臓器提供者が現れなかった場合、あなたは自分の臓器を提供して助けられますか?
それは出来ない、と言われるのなら、あなたが言っている事は極端にいえば偽善にしか過ぎない。
そういうことです。
人の命に優劣などないのです。
> もはや水掛け論にしかならず火に油を注ぐ結果にしかならない
ははは、「水掛け論」なら火も消えるだろうに(笑)。火は消えずとも、せめて頭が冷えるように、もうちょっと水をかけて差し上げましょう。
私が貴方にお話ししたのは、脳死臨調が設置されてからだけでも約20年経過しているよ、ということでしたね。それがどうやったら「医学が人の『生死』を議論して数十年」にすり替わってしまうんでしょう?医学は誕生したときから、人の命を見守ってきたというのに。
人類が創世から生死の問題を考えてきて、その答えは出ましたか? 出ていませんよね? それでも、何ひとつ充分にわからなくても、人間はそれぞれに生き、かつ助け合ってゆかねばならない存在なのです。人の世のある限り、未来永劫に。
私がいつ専門分野の知識だけでこの問題を語りましたか? あれほど「脳死が死かどうか決める科学的な方法はない」「だから、脳死移植を是とする人々の間で行うのがいいだろう」と繰り返し言い続けているのに。
私は、「これが私の死生観」というほどの定かなものは持っていません。しかし、TKさんが生きていた年月とほとんど同じだけ、私も人間として生きてきています。TKさんがいかほどの悩みや苦しみを抱えて生きて来たのか私は知りません。しかし、それがどうしたと言うのでしょう? 悩み、苦しんで人生を歩んできたのは、TKさんだけだと思いますか? 私の通ってきた苦しみを、TKさんは何一つ、ひとカケラだって知らないでしょう。TKさんが「浅はか」と簡単にひとまとめに片づける、その人々が通ってきたそれぞれ一人ひとりの悩み苦しみ、流してきた血と汗を、TKさんは爪の先ほどでも知っていると言うのでしょうか?
TKさんは、自分の死生観を理解してもらうには、自分と同じ体験をしてもらう必要があると言いましたね。
そう言うTKさんは、自分以外の誰をその程度に理解していますか? 自分と同じくらいに理解している、そんな人をたった一人でも挙げることが出来ますか?
TKさんの死生観はともかく、その元になる原体験を、脳死に関する議論に関わる全員が知る必要なんて全然ない。もしTKさんがそれを求めるなら、議論に参加する全員が、全員の人生体験を互いに共有しなければならないことになります。…あり得ないですよね。
自分は理解してもらいたい。けれど、他人を理解しようとする気はない。そういう人を「自己中」と私は呼びます。
> あなたが言っている事は極端にいえば偽善にしか過ぎない。
脳死移植ドナーがみつからないとき、自分の命を差し出さないと偽善者になるのですか???ご意見としては興味深いですが、私だけでなくほとんどの方が首をかしげると思いますよ。
では、こちらから質問。
誤診の可能性を理解した上で脳死ドナーとなることを受け入れた素晴らしい人がいるというのに、自分が脳死と誤診されたくないからといって、「移植医療など根こそぎやめてしまえ」と言う人を、私達は何と呼べばいいですか?
TKさんはまだためらいもなく素直に「死んでもいい」と思えるお年頃ではありませんよね。まだ死にたくない、というのは青壮年期を生きる人間として、当たり前のことです。だったらカッコつけずに素直にそう言えばいいのに、「自分のためでなく、利他の精神から脳死移植に反対する」とか主張するから、なんとも胡散臭いと私の嗅覚にひっかかるのです。
TKさん。貴方の利他精神、慮りを示したいのなら、まず貴方が自分のブログで傷つけた人々に謝ってください。私の主張は当初から一貫しています。
「必要も深慮もなく人を傷つける言葉を使うべきでない」
ただ、これだけをずっと言い続けているのですよ。専門的な話は、貴方が自らの過ちに気づきやすいように添えているに過ぎません。
「じんましん?アトピー?」では、TKさんは相当つらい目に遭ったようですね。今は少なくともこの「脳死再論」を書ける程度に回復したのだろう、とお察ししています。その前提で書きますが(もしまだなら、早く治りますように)、病気というものが、どれほどつらくて苦しいものか、我が身を以て体験されたのではないですか?それがもし、移植以外で助かる術はない、移植しなければ数ヶ月から数年で命を失うと宣告されたらどうだったでしょう。死に至る病でないと思っていても、「頑張れ、オレ」と自分を励まさなくてはいられなかった。その苦しみを思い出しながら、移植を待つ患者さんたちの気持ちを想像してみましょうよ。きっと、別の視界が開けてくると思いますよ。